前回の記事には京阪中書島近辺の事を書きましたが、その中書島から

3駅乗った橋本という駅に移動しました。

購読している日本経済新聞のThe STYLEという日曜版に下記の記事が載っていて

興味を持ちました。

 

9月4日(日)の紙面だったのですが、上差しは電子版だからか日付が違う?!
9月8日から京都へ行くことにしていたので、行ってみようと思い、見学予約の
電話電話をしました。
こんな風に新聞に載ってしまっては、予約殺到ダッシュで断られるかも、と覚悟しながら。
すると、いつでも良さそうな感じだったので、義実家へ行った帰りに寄ることに。
この記事で経営者の方が中国中国出身の方とわかっていたので、たどたどしい
日本語でしたが、怪しまずに済みました笑
 

京阪橋本

降りた乗客は高校生がほとんど。(午後2時頃)

普通のみ停車する駅で、電車が行ってしまった後は誰もいなくてひっそり。

 

この駅には20代の頃、一度だけ利用した事があります。

高校時代からの友達が

「どうせ彼氏もいないし暇なお正月門松でしょ?一緒に遊ぼう。」

彼女の会社の同期の家に来いと言ってきたのです。

お邪魔するお宅の人は全くの初対面。でも友達の友達だから気が合いました!?

正月鏡餅早々、女3人で鍋鍋をつつく事に。伺ったお宅がここ橋本でした。

 
 

 

京都に生まれ育っていながら、この橋本遊郭の街だったとは全く知らず。

そう言われれば、元そういう場所だったのかなと思わせる住宅がいくつも。

全く人が歩いておらず、子供の声気づきもしないのが、余計に怪しげな雰囲気を

醸し出していました。

 

 

目指す橋本の香はすぐに見つかりました。

インターホンもなく、戸を開けて中に入るも誰もいらっしゃらず。

予約した時間より少し早く到着していました。

受付カウンターのような場所に御用の方はこちらへと予約した時と同じ

携帯電話番号が書かれていたので電話スマホ

「今、別の人を案内しているので、ちょっと待ってください。」とのこと。

 

もと三枡楼という名の高級遊郭だったそうです。
別の建物の見学をしていた人を見送って、戻ってこられた経営者さん。
見学料500円をお支払いして上がらせていただきます。
 

タイルと木の不思議な組み合わせの玄関の小上がり。
建てられたのは昭和10年(1935 年)とか。
右手の階段から2階の仕事部屋へ。
現在は旅館として営業されているようです。
 
下差し手前に写っている階段は、客は使わず、娼妓のみが使ったとのこと。

この部屋のステンドグラスがとても素敵でした。

 
 

 
この部屋の外側の廊下の天井が傘傘の骨状になってました。
 

天井を通ってる木は継ぎ足される事なく丸々1本そのまま。

「何の木ですか?」と質問するもわからない滝汗

 
妖艶な雰囲気。
 

 

こちらは店の主人の部屋下差し

壁一面が箪笥?

   玄関上がってすぐの場所に金庫¥が。

(玄関の写真の鶴の裏手です)

 

欄間も細かい仕事。

写っているのはこちらの経営者の政倉さん。

暑い日だったので、マスクずらして説明してくれてましたタラー

 

こちらのステンドグラスも素敵ラブラブ
ここは洗濯機置き場になってますがアセアセ

透明のガラスから見えているお庭はこんな感じです下差し

 

 
 

洗濯機の上に洗濯物の入った大きなたらいがのっていたので、どかせていただき撮影アセアセ
 
 
引き続き、新聞記事を。(全部載せるのは長くなりますので、一部を)

鳥羽伏見の戦いで1つ前に記事にした寺田屋も一部焼けたのです。

 

客の中心は大阪の中小企業や軍需工場で働く20代が7割だったと。
娼妓は金融恐慌世界恐慌で生活が困窮し、身売りした女性達だったと。
 
日経の記事ではないのですが、調べると遊郭廃止前は京阪橋本駅の
終電は満員だったとありましたタラー
 
 
 
政倉さんはもう一つ建物を所有しておられ、それがこちら下差し
喫茶店(カフェ!?)として経営しているようです。
私が伺った時、いらっしゃらなかったのは、別の人にこちらを案内していたから。
 
こちらは見学しませんでした。別に500円とられるだろうからアセアセ
お茶をコーヒー飲めば、見学料いらないかな、と思いつつ、お一人で
やってらっしゃるようなので、見学者がいると提供できないよね!?
ということで、この日はもう実家へ帰りました。
 
さて、日経の記事のタイトルにある「負の遺産」
その意味はお分かりかと思います。
遊郭であった事を示す石碑を巡り、保存すべきか否か住民間で意見が対立ピリピリ
思い出したくない!という意見が勝り、石碑は移設されたと記事にありました。
妓楼を経営していた子孫は、当時も今も世間からの冷たい視線が辛いようです。

 

今回の帰省の最後には、これまた高校時代の部活の友達と餘部鉄橋へ1泊旅行

したのですが(既に記事にしています)、その時に橋本の話をすると橋本がある

八幡市に住む友達が1人いて

「中学の時、”あの通りより向こうに住んでいる子達とは遊んではいけない。”

親から言われていた。」と言う橋本辺りから通うクラスメートがいた。」と。

遊郭廃止からもう何十年も経っていたというのに。

 

遊郭があった一帯は淀川のすぐそば。

私が橋本駅で一緒に降りた乗客はほぼ皆、川の方へは行かず、線路より山側へ。

線路を超えて川側に行ったのは私のみでした。

お正月に遊びに行ったという友達(の同期あせる)のお家も山側だったかと。

一度だけの来た橋本の思い出は、今回来た場所とは全く違っていて驚きました。

 

橋本の香に向かう途中に誰も歩いておらず、子供の遊ぶ声もしないと違和感

感じたのは、やはりその歴史と関連するのかなと。

 

引き続き、地元は遊郭の歴史を示す遺産をどうするか悩み続けるのでしょうね。

高層マンションが建つ予定なのか、マンション建設反対!!のビラがあちこちに

貼ってありました。

 

伺った建物はとても美しく保存して下さってよかったとは思うけれど

(それもよそ者の勝手な言い分かもしれません)キレイ!映える!

終わらせず、そのつらい歴史も一緒に考えてみるべきかなと思いました。